戦国時代前半から戦場の舞台となった高尾の山城跡
高尾駅の南側、実践学園のグラウンドの裏山に初沢城はあります。
日本城郭大系によると「新編武蔵国風土記稿」では武蔵七党の横山党一派、椚田(くぬぎた)氏がかつて居城としたと記されています。ただ大江広元の子孫、長井氏の説もあるとのこと。麓の高乗寺には片倉城の永井膳太夫高乗が開創に深く関わり、寺院名にもなったと解説板に記されています。※おそらく永井氏と長井氏は同一人物と思われます
しかしそれだけで長井氏が城主だったとは言い切れないと城郭大系は見解を示しています。
ただ永正元(1504)年に山内上杉氏と扇谷上杉氏が激突した立河原合戦で、優勢に進めた山内上杉側が、扇谷上杉氏の家臣だった長井八郎を「椚田塁」で捕虜になったと記録にあるらしく、この「椚田塁」は初沢城でないかと考えられているので、仮に椚田氏が築城したとしても、戦国時代前半には長井氏の影響下にあったと考えるのが自然のようです。
その後、関東を席捲しつつあった北条早雲に対抗すべく、両上杉氏は和睦。永正7(1510)年には山内上杉方で青梅の勝沼城を治めていた三田氏宗の勢力圏になったとされ、北条早雲と連携した長尾景春が相模の津久井城のい入り、それと対峙していた・・・までは歴史が分かっているそうですが、その後は不明とのことです。
ただしこの付近は後北条氏の八王子城があり、その支城になっていたであろうことは想像に難しくなく、また八王子城の前に、この付近の後北条氏にとっての重要拠点だった滝山城を武田信玄が攻撃した際、初沢城の直線距離で北に約1キロほどの位置に廿里砦を後北条氏が築城し、武田軍と合戦を行ったとされていますので、間違いなくその際もこの初沢城は後北条方のなんらかの要塞として機能したと思われます。
しかし、初沢城。本丸も狭く、いくつかの郭を確認できましたが、どれも狭いので多くの兵が居住するのは厳しいかと感じました。これは勝手な推測ですが後北条時代には狼煙台程度の役割を果たしていたのではないかと思います。
インパクトのある大堀切や、土塁または石積みなどの遺構は見られませんが、郭や一部に土橋、堀切を確認することができます。
本丸には初沢城の名が刻まれた碑が設置されており、ベンチも用意されているので休憩なども可能です。
問題は初沢城への登山ルート。GoogleマップのGPS機能を頼りに高乗寺方面から登ろうと向かいましたが、ここからの登山口はなく、結局水道局の配水タンクのある住宅地の裏手にまで回り込んで登山を開始。
途中まではアスファルト補正されていますので特に危険な個所もありません。
ここから本丸までは山道に変わりますが、ハイキング道としては整備されており、すぐに本丸に入りますので、スニーカー程度の装備でも特に問題はない城跡です。ただ冬場の方が訪問はしやすい山城であることは間違いありません。
その帰り道、行きとは道を変えてみましたが、それで分かったのは実践学園のグラウンドがありその裏山から登っていくのが、高尾駅から向かうのであれば最短だということに気が付きました。
このサイトを参考にしていただいている方は、ぜひそちらのルートを選んでいただいた方がオススメだと思います。
先ほどご紹介した廿里砦も近いので天気のいい日に、ハイキングがてら歴史散策を楽しまれてみてはいかがでしょうか。
所在地
東京都八王子市初沢町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円