日本の城巡り「MARO参上」

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若江城(大阪府)

三好宗家の最期の舞台となった城跡

 

近鉄「若江岩田駅」の南側が城跡推定地とされています。
東京地図出版の「城巡礼 盛者必衰 大阪48ヶ所めぐり」では三好宗家滅亡の舞台として取り上げられていますが、さらに深い歴史を持つようなので、日本城郭大系の説明を紹介したいと思います。

まず、若江城は大きく2つの時期に分けることができ、第一の時期は明徳・応永年間(1390~1428)に、高屋城(羽曳野市)を本拠にした、河内守護・畠山氏が築城し、守護代の遊佐氏が実際の運営を行ったとされます。

応仁の乱のきっかけにもなった、畠山氏の内紛(義就・政長の争い)の際には若江城は争奪の的になり、義就方が最終的には若江城を支配したとされますが、その後しばらくの間の歴史は不詳らしく、第二の時期が始まります。

まず天文年間の初めに、近江守護・佐々木氏傘下の若江下野守兼俊の居城となりますが、兼俊は佐々木氏に背き高野山へ追放された後は、城主が定着せず三好長慶(ながよし)が河内を手中にすると、長慶の子・義継が、重臣・松永久秀に擁され永禄11(1568)年に若江城に入城し支配権を得ます。

義継は織田信長との関係も悪くなかったようですが、足利義昭の妹婿であったため、義昭と信長の関係が悪化しするに従い、信長の関係も悪化します。

天正元(1573)年に、義昭が京都の槇島城で挙兵し、信長に敗れると、義昭は羽柴秀吉らによって、若江城に護送されてき、さらにそれを追うように信長軍は若江城を包囲。
ついに同年、義継はこの城で自害をしたとされます。

以後は信長が石山本願寺との争いで利用した形跡があるようですが、ルイス・フロイスが天正(1581)9年の記録として、「ここは今城も何もなく、唯多数の住民の居る町のみがあった」と伝え、この頃には既に廃城になっていたと考えられています。

現在の地形はほぼ平地で当時の面影はなく、遺構は残らず比較的立派な石碑と解説板が設置されているのみです。

かつて戦国の世を、一時は席巻した三好宗家が滅亡した歴史のある街だとは思いもできず、駅前付近などは商店街などで賑わっています。
大きな期待ができる城跡ではありませんが、いわゆる「スタンプラリー派」で歴史背景のあるスポットを巡られる方には電車で訪問しやすい場所ですしオススメします。

所在地

大阪府東大阪市若江南2

新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)

【JR在来線】JR山手線 新宿駅~品川駅(乗換え) 料金 片道190円 所要時間 約20分ほど
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~新大阪駅 料金 片道14,250円 所要時間 約2時間26分ほど
【大阪市営御堂筋線】新大阪駅~なんば駅 料金 片道270円 所要時間 約15分ほど
【近鉄奈良線】大阪難波駅~若江岩田駅 料金 片道290円 所要時間 約20分ほど
【入館料】0円

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