後北条氏の対武田戦線の重要拠点
相模原市の津久井湖城山公園が城跡になり、公共交通機関の場合、各線橋本駅から神奈川中央交通バスの三ヶ木行で、津久井湖観光センター前まで行くのが本数的もベストだと思います。
バス停を降りれば正面に登場口があるので、そこからは山頂まで登山ですが、山歩きに慣れている方であれば「整備されている」と感じられるでしょうが、正直多少危険なポイントもあるので、履物や服装(夏場は毒蛇含め数種類のヘビが生息しているそうです)はキチンとしたものが良いです。
管理人は2012年の10月後半に初訪問してますが、一匹だけですがオオスズメバチを目撃しています。
しかし、大規模な遺構を堪能できる津久井城は、城域も広大。東京都内からもアクセスが比較的便利なため、中世、戦国の城郭ファンの方にはオススメの城跡です。
その津久井城の歴史を日本城郭大系を元に説明します。
その歴史は古く、鎌倉時代にまで遡るとされます。「新編相模国風土記稿」では、三浦党の筑井(つくい)氏が領したことから、津久井の地名が誕生したと伝えます。戦国期には後北条氏が支配していたことが知られます。
現在の都道府県制度でも、山梨県と神奈川県の県境に位置する津久井城ですので、戦国期も甲斐の武田氏と何度か争奪戦が繰り広げられていたそうで、大永4(1524)年に北条氏綱が江戸城の扇谷上杉氏を攻めた際、武田信虎が津久井を攻めた記録が残されています(妙法寺記)。
後北条氏にとって武田氏に対する備えとして重要拠点であった津久井城は、津久井衆と呼ばれた武士団の筆頭・内藤氏が小田原の役(1590年)まで統治しますが、「小田原衆所領役帳」に「敵知行 半所務」と記され、当時は後北条氏の完全支配でなく、津久井領は武田氏の支配を受ける武将もいる複雑な土地であったと推定されます。
内藤氏の動きも不可思議な面もあったようですが、天正18(1590)年の小田原の役では、津久井城主・内藤景豊は小田原城に篭り、津久井城は老臣たちが守備したものの、徳川家康の武将・本多忠勝、平岩親吉らによって攻略されたとされます。
その後しばらくは徳川氏によって支配されたそうですが、ほどなく廃城になったとされます。
現在の城跡は冒頭で触れたように、山深き中に石垣や竪堀などの遺構が残ります。
観光センター前から登っていくと、見所の一つの、今も水を湛える「宝ヶ池(井戸)」が姿を現し、それを正面に左に行くと鷹射場、そのまま丘を登ると祠があり、その付近が飯縄(いいつな)曲輪となります。
さきほどの宝ヶ池を基点にして、鷹射場の反対側に太鼓曲輪、その先に本丸があり本丸には解説板なども設置されています。当日、見落としてしまいましたが、太鼓曲輪の南斜面には家老屋敷跡があり、そちらの石垣が城内では最も良好な石垣の遺構となるようです。
どこが一番の見所かと言われれば、少し答えに困るのですが、とにかく全体的によく城の形状が感じることができるので、じっくりと城域を散策したい城跡です。
東京近郊で本格的な山城を堪能できます。
所在地
神奈川県相模原市緑区根小屋
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【神奈川中央交通バス】橋01 三ヶ木行など 橋本駅北口~津久井湖観光センター前料金 片道300円 所要時間 約20分ほど
【入館料】無料