水軍九鬼氏の末裔が幕末まで統治した陣屋
海のない兵庫県三田市にある三田陣屋は、戦国時代織田信長にも従い、水軍として名を馳せた紀伊の九鬼(くき)氏が幕末まで統治した三田藩の藩庁でした。
九鬼氏は嘉隆の代に信長に従い、石山本願寺攻めにも水軍として参加。毛利水軍を破る活躍をした武将でした。
信長の後は豊臣秀吉に従い、朝鮮出兵にも参加。志摩に5万5千石を領しますが、秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)で九鬼氏は他にも見られたように、一族で東西に分かれます。
嘉隆は西軍に、その子・守隆は徳川家康に仕えていたため、父の挙兵を聞き帰国途中に桑名城の西軍・氏家純利を討ち、それを手土産に家康に父の助命を請います。
願いは聞き入れられましたが、嘉隆はその報が伝わる前に自害してしまったそうです。
守隆も父同様に水軍の長として重宝され、大坂冬の陣では水陸両方で活躍。しかし。寛永9(1632)年に死去すると、次に家督をついだ久隆は西軍についていたため、志摩から石高も減らし、さらに水軍を使えない海のない三田に移封されます。
九鬼氏はこの際、久隆の三男・隆季は京都丹波で2万石を領し、2家に分かれることになりました。
ここ三田陣屋は九鬼宗家ですが、「城主格」は認められず、関ヶ原で西軍についた嘉隆系列であるため幕府から冷遇され、綾部の守隆系の方が石高が少ないにも関わらず、「城主格」として認められるなどの差が生じたそうです。
現在三田小学校に隣接する池が名残でしょうか。これら大池を活用して、水軍の練習も欠かさず三田九鬼氏は幕末まで残りますが、現在、その小学校と隣接する有馬高校の間には大きな濠跡を確認することができます。
遺構ではこれが一番の見ごたえになってくるかと思います。他、金心寺の山門も、大手の黒門跡を移築したものだと伝わります。
駅から三田陣屋に向かうと旧九鬼家住宅がありますが、こちらは九鬼氏家老の九鬼隆範氏の邸宅跡とのこと。明治時代の建築物ですが、三田九鬼氏の貴重な資料・遺構であることには変わりないと思います。
小学校前の石碑だけで終わると、見所もなにも無い城跡(陣屋跡)ですが、近くをいろいろ歩いてみれば、地形やまた文中にも触れた、建築物の以降の一部なども見学できますし、ある程度時間に余裕を持って、周辺散策を忘れずに堪能したい城跡です。
所在地
兵庫県三田市屋敷町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~新大阪駅 料金 片道14,250円 所要時間 約2時間26分ほど
【JR在来線】JR東海道線 新大阪駅~福知山線 三田駅 料金 片道820円 所要時間 約1時間ほど
【入館料】0円