柴田勝家が水瓶を割り士気を高めた山城
近江鉄道の武佐駅南側にある瓶割山(かめわりやま)の山頂に築かれたのが長光寺城(瓶割山城)で、日本城郭大系によると、応仁2(1468)年に佐々木四郎政堯(まさたか)が宗家である佐々木重頼に敵対し長光寺城に籠もって戦ったと記されています。
ここで記されている重頼という人物は恐らく佐々木(六角)高頼のことで、政堯は応仁の乱(1467~77)で細川勝元の東軍について戦った武将で近江守護を務めた武将のようです。
政堯自身は後に高頼に敗れ戦死しますが以後、佐々木(六角)氏が観音寺城を中心この一帯を支配し長光寺城はその支城として機能しましたが、永禄11(1568)年に織田信長が上洛すると、佐々木(六角)義賢・義治父子は観音寺城を出て甲賀へ退避。
長光寺城には信長の重臣・柴田勝家が守備することになります。
この長光寺城で最も有名な物語が誕生するのはこの後。永禄13(1570)年に佐々木(六角)氏が体勢を立て直し攻撃を仕掛けてくると、勝家は籠城戦を強いられることになります。この際、水の手を切られた勝家は、座して死を待たず突撃を試みようと、城内の水瓶を割り、城内の士気を高め窮地を乗り切ったと伝わります。
この戦いでの勝家の行動から「瓶割り柴田」の異名がついたとされます。
※しかし史実か創作か定かでないようです。
天正4(1576)年に安土城の築城が始まる頃に廃城になったと考えられる長光寺城。現在の日吉神社と不二の滝の間からなどいくつか登山道がついていますが、管理人はこの道から登城しました。
登山道に入るとすぐに目の前に切岸のような地形が現れ、一部石垣の名残のようなものが見受けられますが、ここがすでに城域であったのかは残念ながら不明。
しばらく山道を進んでいくと大きな堀切(本丸と二ノ丸間)が現れます。ここの土橋は、長光寺城最大の見所の一つと言っていいほど、見事な状態で残されています。
また向って左側(本丸を正面)には高石垣が残りますが、冬でも草木で隠れ写真を撮ってもよく分からないものとなっています。
本丸は広く二ノ丸側から見ると奥に解説板が設置されています。三ノ丸側への道が完全に藪化していて訪問を断念しましたがそちらには井戸も残されていると標識にありました。代わりに道の開けた郭へ降りてみましたが、武者隠し、米蔵など様々な標識が設置され分かりやすく解説されていました。
登山道自体の整備はハイキングコースとまでは言いませんが、城域内の整備はなかなか行き届いていると感じましたが、やはり山城そのものですから、冬場の天気のよい日に余裕を持って登城されることをオススメします。もちろん最低限靴だけはしっかりとしたものを履いておくことが望ましいと思います。
あと道中、イノシシが地面を掘り起こした後が続いていましたので棲家であることは間違いないと思いますが、昼間であれば危険性は低いと思われます。
猛将として名高い柴田勝家ゆかりの戦国時代の山城。京都方面からのアクセスも比較的よく、休日に手軽に訪問でき、有名な歴史背景がありかつ、遺構の残存度もまずまずのオススメの城です。
所在地
滋賀県東近江市上平木町瓶割山
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR新幹線ひかり】品川駅~米原駅料金 片道12,400円 所要時間 約2時間10分ほど
【JR東海道本線】米原駅~近江八幡駅(新快速停車駅)料金 片道500円 所要時間 約20分ほど
【近江鉄道】近江八幡駅~武佐駅料金 片道170円 所要時間 約5分ほど
【入館料】0円