誤って天守閣が取り壊された”もう一つの亀山城”
JR亀山駅の北側の丘陵地に亀山城はあります。便宜上、京都丹波の亀山城と区別するために、当サイトでは伊勢亀山城として紹介させていただきます。
伊勢亀山城の歴史ですが、伊勢平氏の築いた若山城(亀山古城)が始まりとなりますが、ここでは戦国期以降にスポットを当てて、日本城郭大系などを参考に歴史を紹介します。
先に触れた伊勢平氏一族の関氏がこの地を支配し、戦国時代には近江の佐々木六角氏が、自家の重臣・蒲生定秀の娘を、当時の伊勢亀山城の城主・関盛信と、関一族の神戸(かんべ)友盛それぞれに嫁がせ手を組んだとされます。
その頃、織田信長が侵攻。永禄10(1567)年に北伊勢に攻め込み、信長の三男・信孝が神戸氏を継ぎ、関一族は織田方についていきますが、先の盛信だけは長島一向一揆(1571年)の時に、一揆側についたため幽閉(後釈放)されます。
天正10(1582)年に「本能寺の変」で信長が討たれると盛信は再び亀山へ戻り、織田信雄・信孝の対立に乗じ豊臣秀吉の援助を受けて関一族が伊勢亀山城を奪還。
天正18(1590)年の小田原の役後に蒲生氏郷が松阪城から会津へ転封されると盛信の長男・一政も従い白河へ移り、伊勢亀山は岡本下野守宗憲が2万2千石で入城し、現在の場所に新城を築きますが、その後城主は定まらず元和5(1620)年に三宅康信が1万石で入城。
三宅氏支配下の寛永9(1632)年に堀尾忠晴が幕府の命令で、京都の亀山城の修築を命じますが、忠晴は誤って伊勢亀山の天守閣を解体してしまいます。ただ、これには敢えて間違えたように見せ、小大名の城に不釣合いな天守閣を解体させたという説もあるそうです。
以後も城主の変動は激しく、最後は石川氏が統治し幕末を迎えました。
現在ですが、訪問した2012年9月現在では写真のように、三重県唯一の城郭現存建築物の多聞櫓が工事のため見学不可。多少残念な状態でした。
しかし北側の亀山公園には二の丸や帯曲輪などが残り、また東側の街中には大手門跡の記念碑などが設置され、城跡全体を散策してみると、小大名の城とは思えない規模の大きさがよく伝わってきます。
亀山駅から歩くと城が傾斜のきつい高台で、防御にも優れていただろうことが伺えます。多聞櫓が有名ですが、時間をかけてゆっくりと当時の城域を散策したい近代城郭跡です。
訪問時は見所の一つ多聞櫓や武家屋敷の付近などじっくり見学できていなかったので、また工事が終われば再訪問をしてみたいと思います。城跡はアスファルトや、家族連れで楽しめる公園化されているため年中季節を問わずに訪問が可能な城跡です。
所在地
三重県亀山市本丸町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~名古屋駅 料金 片道10,580円 所要時間 約1時間37分ほど
【JR在来線】JR関西本線 名古屋駅~亀山駅(快速停車駅) 料金 片道950円 所要時間 約1時間5分ほど
【入館料】0円