二つの軍学がコラボレーションした赤穂義士ゆかりの城
その名が表す通り、赤穂義士ゆかりの近代城郭。
日本100名城の一つに指定されています。
歴史背景ですが、藤江忠廉が延享4(1747)年に書いた「赤穂郡志」の中で、享徳年間(1452~55)に赤松満祐の一族だった岡豊前守が大鷹城をこの地に移したことが始まりと、日本城郭大系は伝えていますが、これは定かではないそうです。
また同書は、天正年間(1573~92)に宇喜多秀家の家臣・津良法印が役所を構えたとも記述していますが、「浦上浮田両家分限帳」「浮田中納言家中侍帳」などには、この付近を領したという記述がないそうで、信憑性は低いとされています。
池田輝政(姫路城を現在の姿に修築したことでも有名)方が構えた役所跡に池田三河守が搔上城を築き、その後、浅野長直が常陸笠間から転封してき、城を新築したのが現在に残る赤穂城だと考えらているそうです。
長直が赤穂入りした後の慶安元(1648)年に幕府に新城築城の許可を出し、それが認められると長直の軍学師範だった、甲州流軍学者・近藤正純が城の設計にあたりました。
さらに築城中の承応(1653)年に山鹿素行が長直に指定の例を持って迎えられ、丸虎口の縄張りを一部変更したそうで、この甲州流小幡軍学と山鹿流軍学がコラボレーションして築城されたことも、この城が国指定史跡となり、また日本100名城に選定された理由の一つではないかと日本城郭大系ではまとめられています。
財政難から天守閣は最初から作られなかったそうです。
そして赤穂と言えば、やはり「忠臣蔵」ですが、元禄14(1701)年に、江戸城中で、浅野内匠頭(長矩)が旗本・吉良上野介(義央)を切りつけ、それが元で浅野家は改易されます。そして翌年に有名な大石内蔵助(良雄)ら、赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入る「元禄赤穂事件」が起きます。
浅野内匠頭が刀傷事件を起こした年に、赤穂藩は栃木県の烏山藩から永井直敬が転封。そしてさらに岡山県の西江原藩から森長直が転封。この森氏が明治維新まで赤穂の統治を行いましたが、藩主が浅野氏から森氏に変わっていく中で禄高も減少したため、城下町も徐々に衰微していったそうです。
現在の赤穂城ですが、石垣や堀などの遺構と、復元された隅櫓などを楽しむことができます。
本丸の外周を歩いてみると、なんというか五稜郭のような個性的な設計がされていることがわかります。
天守台に登れますので、そこから確認してみるのも分かりやすいと思います。
大石神社などまとめて訪問すると、かなり時間も必要になってきますので、時間に余裕を持って訪問されることをオススメします。(最寄の赤穂線は本数が少ないため、事前計画はしっかりと立てておいた方が安心して見学できると思います。)
訪問当日、岡山県へすぐに向かったため、あまりゆっくりと赤穂城と城下町を散策できていないので、文中に触れたとおり、次回は時間に余裕を持って再訪問をしてみたいと思います。100名城できれいに整備されているため、年中訪問が可能なのと、ここまで整備が行き届いているにも関わらず、入場無料も嬉しい城跡です。
所在地
兵庫県赤穂市上仮屋
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~姫路駅(乗換え)駅 料金 片道14,700円 所要時間 約3時間ほど
【JR在来線】JR赤穂線 姫路駅~播州赤穂駅 料金 片道570円 所要時間 約32分ほど
【入館料】無料