日本の城巡り「MARO参上」

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西郷隆盛・勝海舟会見の地(東京都)

江戸城無血開城を決めた歴史的会見の地

 

慶応3(1867)年、大政奉還が起きると、翌年1月、鳥羽伏見の戦いをきっかけに、戊辰戦争が勃発。旧幕府軍の徳川慶喜は大坂城に入城していましたが、戦況が悪くなると江戸城へ退避。鳥羽伏見の戦いが起きた翌月の2月、江戸城を徳川慶頼に任せ、自らは上野の寛永寺に謹慎します。

それでも西郷隆盛を中心とする主戦派は、慶喜の謹慎では済まさず切腹までを求めたともされ、新政府軍と旧幕府軍は小競り合いを続け、同年3月に近藤勇らの新選組は甲陽鎮撫隊と名を変え、甲府城を占拠するため西へ。それを防ぐため、板垣退助らの新政府軍が東へ。
近藤らは甲府城へ入れず、江戸から見て手前の、甲州勝沼にて戦闘。それに敗北し、この記事での主役ではありませんが、近藤は同年5月に板橋にて処刑されます。

さて、話を徳川慶喜方に戻すと、勝沼で近藤らが敗れた3月に、遂に新政府軍側から西郷隆盛ら、旧幕府軍から勝海舟らが、今の田町にあった薩摩藩屋敷にて会談。その場所は今の三菱自動車本社ショールームのあたりとされ、ここは当時、薩摩藩の蔵屋敷があったと現地の記念碑に記されています。

この会談にて勝海舟は江戸城の開城を決め、世に言う「江戸城無血開城」が決まったとされます。
これには実は英公使のハリー・パークスが執拗に慶喜を攻撃しようとする、西郷ら主戦派を牽制し、それに西郷らが影響を受けたという話もありますが、その真相はここでは不問にしたいと思います。

とにかく、結果として江戸城は新政府軍の下に渡り、同年5月の上野での小戦闘などが終わると、ようやく江戸は落ち着きを取り戻し7月に東京へ改称。9月、明治天皇が京都より移り住み、以降現在に至るまで「皇居」としてその姿を残し、東京も新首都として繁栄をすることになりました。

西郷隆盛・勝海舟会見が行われたことは事実で、そこで決裂していれば東征軍は江戸城に攻撃を加えたでしょうし、首都移転などもどうなったか分かりません。すなわち今の日本の姿を決めることになった、大きな意味を持つ会談が田町にて行われたわけです。

現在、先に触れた三菱自動車本社脇に、目立つ記念碑が設置されています。
薩摩藩屋敷も近くのNECビルから住友ビルにかけて主要施設があったとされ、ここはかつて、西郷隆盛が大いに影響を受けたとされる島津斉彬も暮らした場所だと伝わります。

2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」。
西郷どん関連の史跡も東京にはいくつか存在しています。その一つ田町。今は都市化され遺構は何も残されていませんが、歴史上の大きな「事件」のあった場所。それに思いを馳せながら散策されてみてはいかがでしょうか。

所在地

東京都港区芝5

新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)

【JR線】山手線 新宿駅~田町駅 料金 片道200円 所要時間 約25分ほど
【入館料】無料

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