日本の城巡り「MARO参上」

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箕輪城(群馬県)

武田信玄も統治した西上州を代表する名城跡

 

日本100名城の一つ箕輪城。2015年5月、当サイトの相互リンク先の一つである「ぶらりぶらりお城巡り」の管理人さんとそのクルマで念願の初訪問をしてきました。東京在住時代に、高崎城までは訪問しているのですが、公共交通機関と徒歩では訪問しずらい場所になり断念し続けていましたので。

箕輪城はキレイな駐車場が整備され、主要箇所は道が整備されているので、山城ですが比較的季節問わず安全に訪問することができる城跡になっています。

まずその歴史ですが、関東管領の山内上杉氏に仕えていた長野氏が築城したとされます。築城主は長野業尚。時期は永正初年(1505年頃)とされます。すでにこの頃、長野氏は山内上杉氏に属してはいるものの、一大勢力を誇った豪族としての性格を持っていたそうです。

天文20(1551)年に関東管領・上杉憲政が越後へ退却すると、西上州を一時長野氏を治めることになったようですが、この長野氏は戦国大名という位置づけでは終始なかったようです。憲政が長尾景虎に跡を譲り、景虎が上杉政虎(後に謙信)と名を改めた後は長野氏は謙信に属していたようです。

永禄9(1566)年、武田信玄が侵攻。激戦を繰り広げた後、当主長野氏業以下は御前郭で自刃。箕輪城には新たに武田方の内藤昌豊が入城することになります。

天正3(1575)年、すでに元亀4(1573)年に武田信玄が病死しており、後を継いだ勝頼が長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れると、内藤昌豊もその戦いで戦死。しばらくはその子の昌月が城主を務めます。

天正10(1582)年、に勝頼が滅びると、後北条氏の氏邦(本拠は埼玉の鉢形城)が一時占拠するも、すぐに織田信長方の滝川一益が入場。すでに後北条氏は4代目の氏政が織田信長に対して臣従を申し出ているため、一旦は氏邦も引き下がります。一益は箕輪城ではなく厩橋(前橋)城を本拠にします。

しかし間もなく京都で政変が起き、織田信長が本能寺で斃れると、一益は西へ逃れ、箕輪城は北条氏邦が押さえますが、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐では一戦も交えずに無条件降伏。関東は徳川家康が納めることとなり、その武将・井伊直政(後、佐和山藩初代藩主)が近世城郭に改修したようですが、慶長3(1598)年に高崎城を築城し、箕輪城は廃城になったそうです。

現在の箕輪城ですが、さすが日本100名城に名を連ねるだけあって、見応え十分の城跡です。建築物の遺構は残念ながらありませんが、駐車場から搦手口を登るとそこはニノ丸。ここでボランティアの方に案内図を頂くことができました。そのまま本丸、文中にも登場した御前郭こと御前曲輪と連なります。

二ノ丸と本丸の間の堀跡は見事としか形容できない規模ですが、これは写真では伝わりきらないのが残念・・・

本丸と御前曲輪の間の堀には下りることができ、そのまま堀底を伝って城内を散策できます。ここは夏季はハチやマムシに注意が必要になると思います。ここに下りると何箇所か石垣も見ることができます。
個人的には鍛冶曲輪の石垣石碑から、さらに虎韜(ことう)門に向う際の鍛冶曲輪の石垣が一番印象的でした。

しかし個人的に印象に残ったのは堀です。
さすが戦国時代を戦い抜いた(現在の城跡は、秀吉が天下平定後に井伊氏が改修したものですが)名城。幅や深さなどそのスケールには圧倒されてしまいました。
100名城って「これがメイン」という遺構を持っているケースが多いですが、箕輪城の場合、「まずはこれを見て」という遺構はないと思います。しかし、城全体を見回せば、そのスケールに満足していただけること間違いなし。しかし、やや城巡りに慣れた方向けの城かもしれません。
個人的にもこれだけ満足できる城跡だとは思ってもいませんでした。箕輪城はオススメの城跡の一つです。

所在地

群馬県高崎市箕郷町東明屋

新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)

【JR】湘南新宿ライン 高崎線 新宿駅~高崎駅 料金 片道1,940円 所要時間 約2時間ほど
【入館料】0円

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