日本の城巡り「MARO参上」

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倉賀野城(群馬県)

そうそうたる戦国大名が奪い合った名城跡

 

倉賀野城はJR倉賀野駅の南側、烏川の河畔にある児童公園や住宅地付近にあった戦国時代の平城跡です。

応永年間(1400年頃)に倉賀野頼行によって築城されたとされます。倉賀野氏は戦国時代には関東管領の上杉憲政(山内上杉氏、上杉謙信を養子にした人物)の重鎮を務めた一族であったそうで、後の上杉謙信である政虎が永禄3(1560)年に小田原城まで遠征する際に、当主尚行が同行。

この戦いでは、逆に後北条氏、武田氏の連合軍に逆に倉賀野城は攻撃を受けてしまうも、この際は撃退に成功したといいます。

しかし永禄8(1565)年に武田信玄によって落城する。尚行は輝虎と名を改めた謙信の援護を受けながら奪回を図るも、信玄は箕輪城まで押さえており、倉賀野城にも飯富(おぶ)氏、真田氏らの武将を入れ守ったとされます。

信玄亡き後の武田氏は、勝頼が天正3(1575)年に長篠の戦いで大敗し、多くの武将を失いますが、この倉賀野氏城も生き残りの金井秀景が城主を引き継ぎます。この人物は倉賀野氏を名乗ることになったそうです。

落ち目の勝頼は、天正10(1582)年に甲州の天目山で自害すると、この倉賀野城も織田信長の手が回り、滝川一益が押さえます。
しかし、同年に織田信長が本能寺で自害すると、事態が一変。後北条4代目の氏政はすでに織田信長に臣従を申し出ていたものの、織田氏に不信感を持っていたともされ、信長という巨大なリーダが倒れると、一益を中心とする関東の織田勢力を排除。再び、倉賀野城は後北条氏に入ります。この時の城主は先に登場した秀景でした。

天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐では、秀景は小田原城で最期を迎え、その時倉賀野城は後北条方の垪和(はが)伯耆守が入り、防戦するも落城し、そのまま廃城になったとされます。

と、一連の歴史を日本城郭大系を参考に紹介しましたが、上記のように上杉謙信や、武田信玄。織田信長に北条氏政など戦国時代のそうそうたる武将が絡み合った戦国時代を代表する城の一つでした。

しかし現在の倉賀野城は遺構という遺構は残っていません。立派な石碑が冒頭で紹介した公園に建っていますが、その公園から見下ろす烏川は城が当時、崖を背後に守られた城であることを想像できますが、当時の城はこの公園から倉賀野駅方面にかけて縄張りされており、その一帯は完全に都市化、宅地化してしまっています。

2015年5月、当サイトの相互リンク先の一つである「ぶらりぶらりお城巡り」の管理人さんと訪問。残念ながら陽が落ちる寸前でもあったので、足早に公園と、その石碑、解説板を押さえただけに終わりました。

戦国時代に激闘が繰り広げられた城跡も現在は静かな住宅地。倉賀野城は駅からも遠くないですし、舗装された街中を安全に進めますので、季節を問わずに徒歩でも訪問が可能です。

所在地

群馬県高崎市倉賀野町

新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)

【JR】湘南新宿ライン 高崎線 新宿駅~倉賀野駅 料金 片道1,940円 所要時間 約1時間50分ほど
【入館料】0円

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