長島一向一揆の悲劇の舞台になった城跡
JR・近鉄長島駅の南側にある長島中学校、長島中部小学校の一帯が長島城跡になり、解説板が小学校と中学校の境界付近に設置されています。
訪問時、たまたま通りかかった地元の方にお伺いしたお話だと、その向かいにある川は堀跡にあたるそうです(これは間違いないでしょう)。
まず長島城の歴史ですが、寛元3(1245)年に藤原道家がこの地に移り住んだことが最初と伝わります。
この道家という人物は当時の朝廷の実力者で、鎌倉幕府4代将軍の藤原頼経の父にあたる人物です。長島に来たとされる頃は、中央政権で失脚しはじめた頃にあたります。
この伝説が事実であったとしても、まだ城郭と呼べる施設ではなかったと思いますが、その地に後に文明年間(1469~87)に伊藤重晴が砦を築いたとされます。
伊藤氏が戦国時代もこの地を統治していたとされますが、元亀元(1570)年にすぐ近くの一向宗願証寺が石山本願寺と呼応して伊藤氏を滅ぼします。
その後長島城は一向宗門徒衆の拠点となり、伊勢に侵攻してきた織田信長と激しく対立。信長側も重要人物を何名が失うなどの痛手を負いますが天正2(1574)年、信長は嫡男の信忠、佐久間信盛、柴田勝家、信長次男・信雄傘下の九鬼嘉隆らが総攻撃。
これに対し一向宗側は五箇所に砦を設け戦うも次第に信長軍が優位に。一向宗は悲惨な最期を迎えたと伝わります。その後、長島城は信長時代は滝川一益。「本能寺の変」で信長が斃れると、次男信雄が継ぎ、その後様々な武将が引き継いだ長島城ですが、徳川幕府4代将軍の家綱親族の増山正弥(まさみつ)が入城。以後、明治維新まで増山氏が長島を統治しました。
現在、長島城の遺構はほぼ残されていませんが、近くの蓮生寺には大手門を移築されたと伝わる山門があります。
また冒頭で触れた小学校の敷地内には樹齢300年を越える松の木が残りますが、この松は元々、本丸の西南隅にあったそうです。
現在城域は住宅街として整備されていますので、実際訪問時は小雨が舞う中でしたが、天候や季節に関わらず訪問することが可能です。
管理人は事前調査不足で願証寺を見落としてしまいましたが、長島城の大手門が残る蓮生寺のすぐ近くですので、ぜひこのページを読まれた方は忘れずに訪問してみてください。
伊勢の戦国末期の有名な歴史舞台になった城跡です。
所在地
三重県桑名市長島町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~名古屋駅 料金 片道10,580円 所要時間 約1時間37分ほど
【JR在来線】関西本線 名古屋駅~長島駅 料金 片道320円 所要時間 約24分ほど
【入館料】0円