古河公方・足利成氏らが居城とした居館跡
古河公方館は日本城郭大系では古河城として説明されていますが、徳川幕府の大老・土井利勝や堀田正俊の居城としての近代城郭「古河城」の説明は、そちらのページで行い、当ページは、関東の戦国時代の動乱の中心にいた古河公方・足利成氏(しげうじ)の居館としての紹介を行います。
そもそも広義の「古河城」は鎌倉時代に遡るとされ、現在の新宿湘南ライン上にある栃木県小山市の祇園(小山」)城の小山政光の弟・行義の子・行平が下河辺荘氏を名乗り築城したと伝わります。
行平らは鎌倉幕府の草創期に活躍し、その重要人物の一人として権勢を誇り「古河城」を代々、下河辺荘氏が継いでいきますが、室町時代に入り永徳2(1382)年に、元は同族だった小山氏に攻められ古河を追われることになります。
その後、小山氏の家臣・野田氏、矢部氏が城主を務めます。そして迎える「永享の乱(1438~39)」で、鎌倉にいた鎌倉公方・足利持氏が戦死。その子・成氏が元服し、当時の関東の覇権を争っていた、関東管領の山内上杉氏と、家臣・太田道灌が特に有名な扇谷上杉氏と対立。
成氏は京都の足利幕府とも対立をし、鎌倉を追われ古河へ入り、「古河公方」を称することになります。
その後、成氏は関東の新覇権を奪おうとする後北条氏の存在に、仇敵の山内・扇谷上杉と同盟。後北条と対立するも明応6(1497)年64歳の生涯を閉じます。
後北条氏が関東を治めた頃は鴻巣御所と呼ばれた「広義」の古河城。当ページにおける古河公方館は豊臣秀吉の小田原征伐(1590年)をきっかけに、古河公方家は栃木の喜連川に移され、以降は近代城郭の古河城としての歴史が始まることになります。
現在ですが、近代城郭・古河城の本丸近くにある古河総合公園内にひっそりと石碑と解説板が設置されています。
この石碑近くには明確に説明されていませんが、明らかに堀切・土橋と見られる地形などを確認することができます。
かつて関東の戦国時代の特に初期に於いて、中心的に活躍した古河公方の居城跡とは思えないほどひっそりとした公園となっています。
どこの森林にも注意が必要ですが、ここも夏場はスズメバチなどを注意する必要があるそうですが、それでもほぼ危険と思われる場所も皆無ですので、まぁ軽装でほぼ訪城することは可能な城跡です。
何度も文中で触れていますが近代城郭「古河城」の散策と合せてぜひ訪問なさってください。
東京都心部からもアクセスよく気軽に歴史散策ができるオススメの街です。
近くのオススメすぽっと
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所在地
茨城県古河市鴻巣
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円