武田信玄が築城し改修重ね幕末まで続いた城跡
JR西焼津駅から北西に2キロほど。現在の西益津小学校付近が田中城の本丸と考えられており、その周辺は宅地、農地化されていますが、それらに隠れるかのようにひっそりと遺構を残しています。
まずそんな田中城の歴史ですが、永禄13(1570)年正月、今川氏の徳之一色城を傘下に治めた武田信玄が新たに、徳之一色城の城域も移動させ増築したのが始まりとされます。
城主は武田四天王の一人とされる山県昌景が当初務め、元亀3(1572)年に信玄が西上作戦を始めるにあたり、板垣信安と城主を替え諏訪原城らを構え徳川氏と対決姿勢を強めますが、その際もこの田中城がこのエリアでの中心的存在であったとされています。
しかしご存知、信玄が志半ばで没し、跡を継いだ勝頼が天正3(1575)年に長篠合戦で大敗すると、徳川氏が先の諏訪原城を奪い、田中城も支城が徳川氏の手に落ちていくにあたり、孤立していくことになります。
天正10(1582)年には江尻城の武田氏一門だった穴山梅雪が徳川氏に寝返ると、田中城城主だった依田信蕃(のぶしげ)は開城し、徳川氏の傘下に入ることになります。
田中城はその後近世も続き、関ヶ原合戦(1600年)の後、慶長6(1601)年には酒井忠利(後、川越城主)が入り、田中藩を開くと酒井、松平、水野氏らを中心に譜代大名がめまぐるしく城主を務め、享保15(1730)年に上野国沼田城(群馬)から本多正矩(まさのり)が入ると、ようやく城主は安定し、幕末まで本多氏による統治が続きました。
田中城は円形の縄張りが特徴で、現在の地図にもその影響が大きく残っていることが分かります。冒頭で触れさせて頂いたように周辺は宅地、農地化されているため遺構がよく保存されているとは言えませんが、それでもそれらの中に武田氏特徴の三日月堀なども確認することが可能です。
よく写真で見かける復元された二重櫓があるのは江戸時代の田中藩下屋敷にあたり、ここは今川氏時代の徳之一色城があった場所になります。恐らく西焼津駅から向うと、先にこちらが目に入ると思いますが、こちらには縄張図も用意されており、現在残されている遺構も示して頂いていますので、まず立ち寄られることをオススメします。二重櫓内には田中城の模型も展示されています。
西益津小学校の正門前には本丸跡の碑柱が建ち、そこを北側に(正門を正面に見て右手)回っていくと二ノ堀、三ノ堀と水堀もよく整備されて残されています。特に三ノ堀は土塁上にも上がれるように整備されています。
それとは逆に本丸碑から南側へ向うとすぐに三日月堀を確認することができます。目だった遺構はこの3つかと思いますが、それでも散策していると農地の中に明らかに土塁を確認できたり、また、いろいろと田中城のどの位置であったかを示して頂く碑柱が用意されていますので、周辺を一周してみても飽きることなく散策することができます。
訪問にあたっては年中問題なく散策できそうですが、農地が多いので夏は蚊や、茂みには蛇なども潜んでいると思いますので、冬場が一番快適に散策することができると思います。
所在地
静岡県藤枝市田中1
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【JR在来線】JR山手線 新宿駅~品川駅(乗換え) 料金 片道200円 所要時間 約20分ほど
【JR新幹線】新幹線こだま 品川駅~静岡駅 料金 片道6,550円 所要時間 約1時間15分ほど
【JR在来線】静岡駅~西焼津駅 料金 片道320円 所要時間 約15分ほど
【入館料】0円