二代目古河公方が出家後に暮らした城館跡
埼玉県久喜市。JRと東武の久喜駅が最寄になる足利政氏(まさうじ)館は、その名の通り足利政氏の居館跡になります。
現在の行政区分上は埼玉県と茨城県と別れてしまっていますが、茨城県古河市に拠点を置いた古河公方こと足利成氏(しげうじ)の初子にあたります。古河公方とその居館についての説明は、古河公方館のページを参考にしてください。
新宿湘南ラインで久喜駅と古河駅はすぐ近くの距離感にあるため、ここ久喜も古河公方の影響下にあったということは明白ですが、まずはこの政氏について日本城郭大系の説明を引用します。
もともと古河公方家は関東を牛耳っていた管領山内上杉氏、その同族である扇谷上杉氏と対立関係にありましたが、後北条氏の台頭から関係改善。政氏は当初、扇谷上杉に接近するも、山内上杉に徐々にシフトチェンジ。形式的に関東管領と古河公方の同盟ができたとされます。
関東は当時、古河公方家自体がその中心にいる状態で戦乱の中ですが、この同盟をきっかけにしばしの静寂が訪れたとされます。
しかし、政氏とその子・高基が対立。栃木県(ここも新宿湘南エリア上)の小山氏の居城「祇園城」に政氏は下った形となり、高基と武力抗争に発展。岩槻城などを転々とし、その頃、この足利政氏館に出家して隠棲したと考えられるそうです。
もっとも、当時「足利政氏館」などといった名称ではなかったでしょうが。
城館としての歴史は永正14(1517)年ころから永正16(1519)年ころまでのわずかの間だったそうで、この頃には政氏と高基は和解し、同年に館は甘棠院(かんとういん)という現在にも残る寺院に変わりました。享禄4(1531)年に政氏はこの館で生涯を閉じ、今もこの場所に墓が残ります。
現在この甘棠院の周囲に空堀跡が城館としての遺構として残ります。思った以上に城館としての見学範囲は周囲が宅地化されているため少ないと感じましたが、この空堀は見応えのあるものです。
道路に面した山門脇には足利政氏の墓と館があったことを示す石碑と解説板も設置されています。
駅からも比較的近く、危険な箇所はほぼないので天候、時期に左右されず軽装で訪問可能は平城ですが、できれば比較的近いため古河公方館などと合せて訪問すると満足度も上がると思います。
所在地
埼玉県久喜市本町7
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円