後北条氏も利用した、鎌倉時代の名族河越氏の居館跡
東武東上線の霞ヶ関駅から北側へ1キロと少し離れた場所に国指定史跡として整備されている河越氏館は、平安時代末期から南北朝時代にかけて、この近辺で強大な力を誇った桓武平氏の流れを汲んだ河越氏の居館跡です。
この頃河越氏の当主だった重頼は娘(郷御前)が源義経の正室になるなど、時の源氏政権とも良好な関係であったとされますが、義経が兄・源頼朝と対立・失脚すると重頼も、頼朝に攻められ誅殺されてしまいます。
その時点で一度は勢力を弱めた河越氏も再興しますが室町時代に入った応安元(1368)年に関東管領・上杉憲顕(山内上杉氏の祖)に反旗を翻し敗北。これをもって武蔵最大の実力者ともされた河越氏は事実上滅んだとされます。
代わってこの河越氏館を上戸陣として、活用したのがその山内上杉氏。同族でありながら関東の戦国時代初期において何度も対立した扇谷上杉氏の川越(河越)城と対峙したとされます。
日本城郭大系には河越氏滅亡と同時に後北条氏が進出してきたと記述されていますが、その頃はまだ後北条氏の祖・北条早雲が誕生すらしていない時期ですから、やはり河越氏滅亡後は、現地解説板にあるように上杉一族の対立の場として活用されていたのだと思います。
しかし、いずれにせよ有名な天文15(1546)年の河越夜戦の頃は後北条氏の重臣・大道寺政繁が河越氏館を再整備し統治していたわけですが、いつの頃かは現地解説板を見ても明確には記されていません。
その頃から日本100名城の一つである川越(河越)城は存在していましたとされるので、恐らくは後北条氏の城として川越(河越)城。この河越館は大道寺氏の居館として戦国期も利用されたのでしょうが、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めで以後、廃城になったものと思いますが、廃城時期も明確には記されていません。
今も残る常楽寺(河越館史跡公園に隣接しています)で、大道寺政繁は秀吉方によって自害させられ、供養等が残るとされますが、実際訪問してみて探してみましたが分かりませんでした。見落としていたのだと思いますが・・・
この常楽寺の山門に古ぼけた「河越氏館」の標柱があり、山門隣には新しい「河越氏館」の石碑が建立されています。また解説板もこちらにも設置されています。
河越氏館の史跡公園内は堀跡も整備されていますが、相当埋められてしまっており、戦国時代を駆け抜けた城(館)を偲ぶことは難しい状態。もっと上手い整備の方法などはなかったのでしょうか・・・
ただその史跡公園に隣接する空き地の周囲に残る土塁は見事。こちらも高さなど往時の緊張状態のものではないでしょうが、河越氏館最大の見所だと思います。
国指定史跡の城跡としては多少フラストレーションの溜まる現況ではありますが、戦国時代にも両上杉氏と後北条氏の争いの舞台の一つになった場所として、一度は見学しておく価値はあると思います。
住宅地と隣接した近代的な整備公園ですので、時期・天候に左右されずに訪問することが可能な城跡です。
所在地
埼玉県川越市大字上戸
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【東武東上線】池袋駅~ 霞ヶ関駅(急行停車駅)料金 片道450円 所要時間 約35分ほど
【入館料】無料