沼田藩真田信利まで続いた戦国時代の城跡
上越新幹線の上毛高原駅近くの小川城は名胡桃城のやや北側に位置します。
その名胡桃城の資料館で入手できるガイドブックによると、明応元(1492)年に沼田城の西の備えとして沼田景久の次男・景秋が初代城主として築城。小川姓も名乗ったとされています。
しばらく小川氏が統治するも、大永4(1524)年に火災で4代目・景奥(または景興)が亡くなり、小川氏は断絶となります。
その後、畿内の守護大名・赤松則村の末裔を自称する、赤松孫五郎なる人物が小川可幽斎を名乗り、小川城の5代目主になると、永禄3(1560)年に長尾景虎(後の上杉謙信)が小川の名跡を与えます。
謙信の在命中は上杉方についた小川可幽斎ですが、天正7(1579)年に後北条氏に攻めらると、真田昌幸に従いそれを撃破するも次に、昌幸に攻められ、さらに後北条氏にも降参が許されず天正9(1581)年に北国へ浪人。昌幸傘下の北能登守が新城主に。
一方の可幽斎も昌幸が従っていた武田勝頼に後北条氏を制服することができれば、武田家臣として取り立てるという約束をうけたそうですが、その勝頼が滅亡すると再び上杉を頼り、文禄年間(1592~95)までの活動記録があるそうです。
小川城の話に戻りますが天正17(1589)年に豊臣秀吉の命で昌幸から後北条氏の持ち城になるも、翌年、後北条氏が秀吉によって滅ぼされると再び真田氏の城に。
その後、徳川政権下でも沼田藩の城として存続しましたが、沼田真田氏最後の信利が明暦3(1657)年に沼田城主となると、小川城は実質廃城となったそうです。
現在、本丸が城址公園として整備され空堀や土塁などの遺構がよく残されています。
道路を挟んで二ノ丸、三ノ丸、また本丸の先端はささ郭と連郭式の城。
今では本丸以外が農地となって見学エリアが限定されていますが、当時は川が広く本丸から侵入することは到底不可能な天然の要害の地だったと、たまたま見学中に説明にきていただいた地元の方に教わりました。
管理人は普段、公共交通機関で城巡りを楽しんでいますが、小川城は2018年5月、当サイトの相互リンク先の一つである「ぶらりぶらりお城巡り」の管理人さんと一緒にそのクルマで訪問。
もし可能であればクルマで文中に登場した沼田城や名胡桃城等と併せて回るとより楽しめるスポットです。
所在地
群馬県利根郡みなかみ町月夜野
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円