関東管領と同族の深谷上杉氏の居城跡
埼玉県北部の深谷市、JR深谷駅の北側にある深谷城址公園付近が、深谷城跡です。
まず深谷城の歴史ですが、城主の深谷上杉氏は、関東管領の山内上杉氏の同族にあたります。上杉憲英が深谷上杉氏の祖とされ、深谷氏4代目の房憲が室町時代に築城したと考えられています。
戦国時代に移るにあたり、深谷城も戦闘を避けることはできず、康正2(1456)年、古河公方の足利成氏と戦った資料が残ります。また少し時が離れますが、天文20(1551)年には北条氏康が同族である関東管領の山内上杉憲政(上杉謙信を養子にした武将)がいる群馬の平井城を攻撃。
この際に、岩槻城の太田資正、箕輪城の長野信濃守らに攻撃を受けたそうです。
その後ついに天正元(1573)年には、深谷上杉憲盛は後北条氏に降り、その傘下に入ることになります。この際に、長子だった氏憲を、北条氏政の婿としたそうですが、これがきっかけで翌(1574)年には越後の上杉謙信に攻撃されてしまいます。
この時の結果は日本城郭大系には、詳細に記されていませんが、恐らくこの後、織田信長勢が北関東に食指を伸ばしたり、その信長が明智光秀によって討たれると、再び後北条氏が盛り返すなどのこの一帯の地方が辿った運命をこの深谷城も辿ったものだと個人的には考えます。
そして天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐では、戦闘に入り落城寸前までなったそうですが、その時点で降伏し秀吉方に開城したそうです。
以後、秀吉時代も徳川幕府時代になっても徳川譜代の大名達の居城として存続しましたが、寛永3(1626)年に酒井忠勝が3万石で深谷城にいましたが、忍城へ5万石で転封となり、深谷上杉氏以来続いた、北関東の名城の歴史が終わります。
現在の深谷城ですが、冒頭で触れた史跡公園となっていますが、遺構は残されておらず、市民体育館や市役所などの施設が並び、全面芝生で市民の憩いの場となっております。
隣接する浅間神社にはかすかですが堀跡が残されていますが、当然深谷上杉氏の時代のものではなく、江戸時代の近世城郭に改修されたものでしょう。
2015年5月に当サイトの相互リンク先の一つである「ぶらりぶらりお城巡り」の管理人さん運転のクルマで群馬の城巡りを行った際に、最後日が沈む寸前に訪問しました。
ずっと気になっていた城の一つだったので、遺構以上に満足。城跡は完全に都市化された市民公園ですので、季節や天候に左右されずに訪問することが可能です。
所在地
埼玉県深谷市本住町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円