真田氏と後北条氏が奪い合ったことで著名な城跡
2017年に制定された続日本100名城の一つ沼田城は、天文初年(1540年頃)に沼田顕泰(あきやす)によって築城されたとされます。
顕泰は関東管領・上杉憲政が越後に亡命すると、それを追撃した後北条氏に従ったものの、その越後の上杉政虎(後の謙信こと輝虎)が永禄3(1560)年に関東へ出陣。小田原との間を分断されてしまった沼田氏は上杉方に降り、以降沼田は上杉方の拠点と変わります。
その間、沼田城は沼田顕泰が統治するも、顕泰自らが「お家騒動」を招いてしまいます。まず溺愛した末子・景義を立てるため、後継ぎの朝憲を殺害。
このことで沼田衆に反発された顕泰・景義は没落し会津へ落ちます。そのころ、元亀2(1571)年に北条氏康が死去、続けて2年後に武田信玄も死去。さらにその5年後には上杉謙信も死去と関東の覇権を争った実力者が相次いでこの世を去ります。
上杉の後継ぎ争い「御館の乱」が生じている頃、沼田の藤田信吉が真田昌幸と通じ、城を明け渡します。ここからが「真田の沼田城」の始まりです。
没落した沼田氏も景義が天正9(1581)年に沼田奪還を試みますが、戸神に陣取った景義を、景義の伯父・金子家清を調略で味方にし、その手引きで戸神に侵入し殺害。
昌義が首実検を行ったとされる石が「平八石」として今も城内に残されています。
昌幸は沼田を当初・海野輝幸を城代にするも、海野氏が真田氏に反逆の罪で殺されてしまうと、一族の矢沢頼綱が城代になりますが、武田勝頼が滅び、関東を支配した織田信長は滝川一益に関東の経営を任せます。しかし間もなく天正10(1580)年に本能寺の変で信長が最期を迎えると、再び関東は争乱の地に。
沼田も例外なく後北条氏との間で領有権争いが勃発。一度は後北条氏に沼田が豊臣秀吉の命により与えられますが、著名な「名胡桃城」をめぐる攻防により後北条氏は天正18(1590)年、秀吉の小田原征伐を受け滅亡。沼田は再び真田の手に渡ります。
以後、関ヶ原で真田が二分し、さらに大坂の陣で幸村こと信繁がこの世を去った後も、その兄である信之系の下で真田が統治を続けるも信利が天和元(1681)年に幕府から沼田藩真田氏は改易処分。以後天領(徳川の直接統治)等を経て幕末までは土岐氏が治め沼田城の歴史は引き継がれていきました。
さて現在の沼田城ですが、本丸北側の西櫓の石垣や空堀など遺構が残されていいますが、相当に改変もされており往時を偲ぶのは少し難しい状態。それでも「公園」として多くの地元の方に愛されているようで、訪問時も多くの方でにぎわっていました。
文中で登場した沼田景義の首実検が行われたとされる「平八石」もこの本丸北にあります。真田の前から沼田に覇を唱えた武将ということもあってか、現地解説板では景義に対する思い入れを感じました。
それでも「公園」として多くの市民の方に愛されているようで、訪問時も多くの方でにぎわっていました。本丸に「クマ」の檻があるのですが、その脇に天守台の石碑があります。沼田城は元々天守閣もあった近代城郭でした。復元模型が駐車場に設置されている資料館に用意されています。
縄張りも少しわかりづらく、現地で頂けるパンフレットにも記載されていないのですが、クマの檻を挟んで二ノ丸があり、その多くは野球場(といってもスタンドがあるような施設ではなく、地元の方が楽しめる草野球場)となっています。駐車場が三の丸で土塁と、石碑が設置されています。
沼田城だけであれば公共交通機関でも訪問は可能。またこの城だけであれば季節も問いませんし、格好も普通の街中に出かけるのと変わらないもので十分です。
管理人も普段は公共交通機関で城巡りを楽しんでいますが、沼田城は2018年5月、当サイトの相互リンク先の一つである「ぶらりぶらりお城巡り」の管理人さんと一緒にそのクルマで訪問。
もし可能であればクルマで周辺にも真田関連の城郭跡が多く残されているので併せて回るとより満足度が高まると思います。
近くのオススメすぽっと
沼田の名物「焼き饅頭」。米のお餅でなくパン生地のような「ふわっ」とした食感。甘辛い味噌タレがよく合います。割田屋さんでは店内で飲食可能。インスタントコーヒーも自由に飲めてとてもお得なお店。城巡りの後で疲れを取るための一休憩にピッタリです。
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人気バラエティー番組「秘密のケンミンSHOW」で紹介された「味噌パン」。おそらく発想は「焼き饅頭」から来ていると思いますが、よりパンにあった「味噌ジャム」がサンドされたパン。おやつタイムにもよく合いそうな沼田の新名物です。フリアンパンさんでは他のパン含めたくさんの焼き立てパンが並んでいます。
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所在地
群馬県沼田市西倉内町
新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)
【入館料】0円