日本の城巡り「MARO参上」

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太田城(和歌山県)

日本三大水攻めの舞台となった紀州の城跡

 

本能寺の変」の直前に羽柴(後、豊臣)秀吉が攻めた岡山県の備中高松城。
小説「のぼうの城」で有名な埼玉県の忍城
そして、同じく秀吉絡みの紀州攻めで水攻めにあった、この太田城。
この3つの城を「日本三大水攻め」と呼ぶのだそうです。

太田城は日本百名城の一つである和歌山城の南側「三年坂通り」を東側へ3キロ弱ほど離れた来迎寺が本丸付近とされ、大きな石碑が建立されています。

またその丁度中間地点に位置する大立寺には移築門が残りそちらにも解説板が用意されています。

太田城の歴史は大立寺の解説板によると、天正13(1585)年の秀吉による紀州攻めの際に、激しく抵抗した太田党の居城と紹介されています。

まだ織田信長が存命中、雑賀(さいか・別称、鈴木)孫一らの雑賀衆を攻めますが、その頃は太田左近は信長の味方につき、それが遺恨となり、信長軍が撤退すると、雑賀孫一らが太田城を攻め、これを「第一次太田城の戦い(1578年)」と呼びます。

この紀州攻めの「組み合わせ」を見ると複雑で、いろいろな人間ドラマが繰り広げられたことが想像できますが、かつては信長と対立した孫一は、信長派に転じており、天正10(1582)年の「本能寺の変」で、信長が斃れると孫一は雑賀から逃亡。本人は後、秀吉に仕え、江戸時代になっても水戸藩に仕え戦国の世を生き抜いたとされますが、この時点ではともかく反信長側が勢力を強めることになります。

かつては信長の味方についた太田左近も大立寺の解説板に記述されるとおり、天正13(1585)年の秀吉の紀州攻めで太田城に篭り抵抗します。

その際に秀吉が用いた戦法が水攻めで、秀吉方にも損害はあったものの、最後は左近を含む53名が自害し、「第二次太田城の戦い」は終わりを告げました。

同時代に信長側に主にいた宣教師ルイス・フロイスによると「都市」的な空間だったそうで、環濠集落として繁栄していたようです。

現在は宅地化され、往時の面影は全く残りません。ですがかつてこの地で、悲しい戦いが起こったんだなぁと想いを馳せながら歩いてみると、どこか物悲しい太田左近や太田城の息吹が聞こえてきそうな気が少しする。そんな城跡ですね。

来迎寺だけでは物足りないと思いますので、大立寺の移築門や、やはり和歌山城と合わせて訪問されることをオススメします。

所在地

和歌山県和歌山市太田

新宿駅からのルート(※料金や所要時間は目安です。)

【JR在来線】JR山手線 新宿駅~品川駅(乗換え) 料金 片道190円 所要時間 約20分ほど
【JR新幹線】新幹線のぞみ 品川駅~新大阪駅 料金 片道14,250円 所要時間 約2時間26分ほど
【大阪市営御堂筋線】新大阪駅~なんば駅 料金 片道270円 所要時間 約15分ほど
【南海線】難波駅~和歌山市駅 料金 片道890円(特急サザン号は自由席は特別料金は不要) 所要時間 約60分ほど
【入館料】0円

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